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2007年7月23日 (月曜日)

ハワイに行ってきました(後編)

で、いよいよ最後はツアーのクライマックスのイオラニ宮殿へ。イオラニ宮殿は現在ではアメリカ合衆国内にある唯一の宮殿でもある。イオラニ宮殿は前記事の最後のお話から年月は経って1882年、第七代国王、カラカウア王によって建てられたもの。残念ながらここも内部は撮影禁止で、ここではその栄華を誇ったイオラニ宮殿の豪華な内装の数々はお見せできません。なお、前述のカメハメハ四世は息子アルバート王子がわずか四歳で亡くなったすぐ後に死去、カメハメハ四世の兄が王位を継ぎ五世となるが、生涯独身だったため、カメハメハ大王からの直系の血筋は五代目にして絶えてしまう。よって第六代ルナリロ王、第七代カラカウア王はハワイ人の貴族の中から議会で選挙によって選ばれた王様である。
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いざ宮殿の中へ、と、杖を頼りに必死に中に入ろうとする施設長にここで待ったがかけられた。え?何?・・・えー、あまりのザマに周囲に見るに見兼ねられてしまったか、とうとうここで施設長に車椅子が用意されてしまいました・・・。生涯初の車椅子という貴重な体験まですることに。ガイドの方に「アメリカでは車椅子を使うのは別に珍しいことではないから気にしなくていいですよ。」となだめられ、ツアーに同行した人に押していただき宮殿内へ。ご面倒おかけしまして面目次第もございません・・・。orz
イオラニ宮殿は建築と内装・美術品の美しさはもちろんながら、同時にまだ19世紀の時代に電灯と電話、水洗トイレに、王族や賓客の食事の運搬用のエレベータ装置と、建設当時ハワイでもちろん初、世界的にも最新鋭の設備を整えたハイテク宮殿だったとも言える。電灯は何でもカラカウア王がパリ万博に出展されていた電球を見て感動し、宮殿にも導入したとか。すでにハワイ人の人口はかつてよりは減り、白人はじめ移民が多くいたとはいえ、ハワイ王朝全盛の栄華を見ることが出来る。このとき日本も明治時代前半、文明開化を必死で進めていた時代である。
メリーモナーク(陽気な王様)と呼ばれたカラカウア王、世界一周旅行をしたことでも知られるがそれは陽気なだけではなくもちろん国王自らが外交官として世界を駆け回ったのである。そこには人口減少による労働力不足への協力要請、各国との外交関係強化による独立国としての地位保全といった切実な目的があったといわれる。そして世界一周の途中、1881年(明治14年)3月に日本を訪れる。なお、日本にとっても他国から国家元首直々の訪問を受けるのはハワイ王国のカラカウア王その人が実は日本の歴史上で最初である。そして明治天皇と会見したカラカウア王はこのとき驚くべき提案を日本に持ちかける。その内容とは以下の通り。

 1) 日本からの移民の要請
 2) カラカウア王の姪で王位継承者でもあるカイウラニ王女と日本の皇族男子との婚姻
 3) 日本とハワイ王国との連合構想

特に2)と3)は日本人びっくりの話である。このとき日本は一番目についてはOKするも、二番目については日本の皇室の習慣では前例がなかったため、三番目についてはアメリカとの関係悪化を恐れたため、残念ながら丁重に断ってしまう。もしこれらが実現していたらその後の環太平洋の歴史はおそらく全く様相が異なっていただろう。実に惜しい気がするが、19世紀といえば近代科学文明によって他の民族に比べ圧倒的な力を持った欧米人という一握りの民族が地球上の大半を植民地にして支配していた時代である。ハワイ王国もそして日本も当時地球上で残り少ない非欧米人の独立国としてその独立と尊厳を守るべくそれぞれが悪戦苦闘の中にいたと言える。ところで、ツアーの最後にガイドの方から聞いた話し、今でも使われる言葉でハワイ語で「外国人」「余所者」を意味するハウリ(Haole)という単語がある。だがこれは転じてほとんど「白人」の意味になり、たとえハワイ生まれでも白人は「ハウリ」なのだそうだが、一方旅行者であっても日本人などアジア人は彼らにとって「ハウリ」ではないのだそうである。
1891年にカラカウア王がなくなるとその妹であるリリウオカラニ女王が第八代ハワイ国王として即位する。だがすでにこのとき白人の勢力は抗し難いものとなり、彼女がハワイ王朝最後の国王となる。白人によって政権を追われた後、王政復古のクーデターの首謀者の嫌疑をかけられた女王は宮殿の二階、後に「幽閉の間」と言われる部屋で8ヶ月間にわたる監禁生活を強いられる。ちなみに現在その部屋に展示されているリリウオカラニ女王が作ったという巨大な刺繍が凄かった。非常に芸が細かくその人となりが想像される。最後の二代、カラカウア王、リリウオカラニ女王とも音楽などの文化に精通した人物であり、当時までに衰退していたハワイ古来の文化を復興させた功績でも知られる政治家である。ちなみに当時のハワイ国歌、現在でもハワイ州歌である「ハワイ・ポノイ」はカラカウア王の作詞、そして有名な「アロハ・オエ」の歌はリリウオカラニ女王の作である。そう、女王がまさに国を奪われ幽閉中に失意の中で完成させた歌こそが誰もが知っているこの「アロハ・オエ」の歌なのである。

Aloha 'oe 「アロハ・オエ」

(原歌詞)
Ha'aheo ka ua i na pali Ke nihi a'e la i ka nahele,
E hahai ana pahi i ka liko Pua ahihi lehua o uka
Aloha 'oe, Aloha 'oe, Eke onaona noho i ka lipo
One fond embrace a ho' i a'e au Until we meet again.

(日本語歌詞)
やさしく奏ずるはゆかしウクレレよ ハワイの波静か夢を乗せて揺るる
アロハオエ アロハオエ こだまするあの調べよ
アロハオエ アロハオエ さらばハワイよ
乙女のかき鳴らす嬉しギターレよ 果て無き海越えて遠く遠く響け
アロハオエ アロハオエ こだまするあの調べよ
アロハオエ アロハオエ さらばハワイよ

この有名な歌にはそのような歴史があったのだ。ツアーの最後にワイキキまで送迎の車の中でみんなでこれを歌う。ちなみに、今回のハワイ旅行はほとんどの時間が自由行動ながら実は団体ツアーで、この日の夕方は最後の晩としてフェアウェルパーティーがあってその中で当然の如く再びこの歌の演奏があった。この日見て聞いたハワイの歴史を一人思い出しながら再びじっくりと聴く。
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ハワイ王朝のツアーも期待していただけのことはあった。当施設的に実に興味深い内容ではないか。二部構成になってしまったがこれでも言いたいことは話し足りない。翌日帰国の日は左足が腫れ上がりまくり、成田空港から浦安までさてこの足でどうやって帰るかが最大の悩みだったが、それでも日本への帰路は達成感一杯の気分であった。

当施設の海外取材企画、次の機会があったら是非またご報告する。

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ハワイに行ってきました(中編)

さて、では改めてハワイ旅行記の中編、すいません、二部に収まらないので三部構成です。二日目終り三日目。一日行動できる二日間のうちの後半である。真珠湾戦艦ミズーリツアーに続くもう一つのツアー、それはイオラニ宮殿とハワイ王朝物語りというツアーである。これも当施設的に大変楽しみにしていたツアーである。三日目の朝、・・・。うーん、痛い。左足がとても痛い。だいたい痛さで目が覚めたし。だが、そんなことでへこたれるわけにはいかない。うおー!!という雄叫びとともに左足を靴の中にねじ込んでいざ出撃。
ツアーはまずイオラニ宮殿自体に行くのは最後として、その前にホノルル市内を中心にハワイ王朝の歴史にちなむ場所を巡る。最初に見たのがダイアモンドヘッドの途中あたりから望むワイアラエ海岸。今は大富豪の別荘などもならぶ美しい海岸、ここはハワイ王国初代の王、かのカメハメハ一世大王が一万数千の軍勢を率いてオアフ島に上陸した場所である。そしてハワイ統一の戦乱の最後の戦闘が繰り広げられたのがこのオアフ島である。ハワイ諸島は各島それぞれの部族が治め元々一つの国ではなかったが、それが変化する契機となったのが1779年キャプテン・クックに始まる西洋文化の流入である。おそらくは銃など西洋の兵器が入ってきたことで部族間の力関係の変化、つまり軍事バランスの崩壊がハワイを部族間の戦国時代へと変えて行ったと想像される。その中で、いち早く外国の文化を吸収して勢力を伸ばし、ついにハワイ諸島の統一王国の建設に成功したのがカメハメハ大王である。
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なお、カメハメハ大王の名の「カメハメハ」とは「孤独の人」という意味だそうだ。大王が幼少の頃、政敵の血筋としてのちに脅威となるという理由から当時のハワイ島の王が殺そうとしたのだが、カメハメハ大王の母親は山中に隠して育てたと言う。「孤独の人」から覇王となり華々しくも波乱の生涯を送ったカメハメハ大王、家来の手で極秘の場所に葬られたためカメハメハ大王の墓というのは未だに発見されていないそうである。
 さて、バスに乗りながらツアーガイドの方から更にハワイ王朝の歴史のお話しは続く。カメハメハ一世の後のカメハメハ二世、三世の時代、ハワイ古来の宗教や習慣が放棄され、同時にアメリカからやってきた宣教師によりキリスト教が広まる。宣教師達より政治や法律の知識を得て、1840年にはハワイで最初の憲法が作られる。ここに立憲君主制国家ハワイ王国が成立、ハワイは近代化の道を歩む。しかし、同時にハワイを蝕み始めたのがハワイ人の人口減少、そしてのちにハワイ王国を崩壊させることになる白人の大地主層の出現である。人口減少の原因は主に外来の伝染病、白人など移民には大したことのない病気でも免疫を持たぬハワイ人には大きな脅威となったのである。ちなみに聡明ながら病弱だったカメハメハ二世の死因はなんとはしかである。人口減少による労働力不足を補うため19世紀半ばアジアからの移民を受け入れる。最初の移民は清国人、そしてその後多かったのが明治元年より始まる日本人の移民である。ハワイといえば有名なアロハシャツ、その起源は日本人移民が着物の和柄の生地を再利用してシャツに仕立てたものに始まるとも言われている。
 やがてバスはホノルル市街から少し離れ静かな郊外へ。そこにはエマ王妃の夏の宮殿と呼ばれる、カメハメハ四世とエマ王妃、そしてその子アルバート王子が過ごした別荘に到着。当然ながら豪華だが静かな場所にひっそりと建っている印象だ。残念ながら中は撮影禁止なためここではお見せできないが、中は豪華な調度品の数々。ヨーロッパ各国の美術品の他、清の皇帝から送られたアルバート王子の浴槽、また明治天皇から送られた伊万里焼の壷などもあり、世界各国の王族皇族との交友関係が伺える。
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↑一枚目:エマ王妃の夏の宮殿、裏手からの写真。鬱蒼とした樹木に囲まれこれだとよくわからないが正面はギリシャ風の豪華な門構えとなっている。二枚目:カメハメハ四世が建てた聖アンドリュース教会。その他、カメハメハ四世は減り行く人口を憂慮してクイーンズ病院を建てたことでも知られる。

(後編へ続く)

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2007年7月16日 (月曜日)

日の丸が消えた・・・?:武道館韓流スターイベント(7/13)

さて、ハワイ旅行記後編と行こうと思ったら、この1,2日ネット上で騒ぎになっていた珍事件があったので先にそっちを記事にしておく。
問題は、7/12に日本武道館で行われた韓国の俳優イ・ビョンホン氏の誕生日イベントというのを日韓のメディアが伝えた記事の写真である。まず以下は韓国のメディアに流れた写真。

マイデイリー 7/13 9:04
ジョイニュース 7/13 9:11
連合フォト 7/13 10:00
イノライフ 7/13 10:38 写真=NEWSIS
中央日報 7/13 13:06
連合ニュース 7/13 14:32

さて、これに対し同じ写真を日本のメディアである毎日新聞が掲載したもの。

毎日新聞 7/13

違いがわかりました?そう、韓国のメディアに流れた写真では武道館の天井から掲げられた日の丸が真っ白に塗りつぶされているのである。

Flag 





なお、さすがに7/15には各メディアともこの写真のリンクを切りニュース記事から削除しているところも多い。あくまで推測だが韓国の各メディアが意図して写真を変造したというよりは、最初にこの写真を韓国に配信した人物が変造をして、韓国メディア側はそれと気づかずに変造した写真を載せたという感じではある。それにしても写真を変造した人物は何を意図したのだろうか。反日感情に凝り固まった人物が悪意で日の丸を塗りつぶしたのか、はたまた韓国の有名スターが巨大な日の丸の下でイベントをやっている姿は韓国メディア上に出せないなどと「配慮」した結果なのか・・・。

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2007年7月12日 (木曜日)

ハワイに行ってきました(前編)

 激務につき更新が滞りがちですが、その激務の間をぬって7/3~7/7までなぜかハワイ旅行に行ってた施設長です。そんなわけで今日は当施設初の海外取材記事の始まり始まり。
が、しかし出発の前夜、自宅でのことであった。

ずきっ・・・!

 おーい・・・、よせよ、冗談だろ?出発前夜突如左足に走った激痛。あれ、そういや2,3日前に海浜幕張の地下駐車場でコンクリートの段差に気づかず踏み抜いてしまったことがあったがあれか?でもあんときは大して痛くはなかったがおかしいな、何でだ。おい、やめてくれよ。ともかく翌日足を引き摺りながら出発。旅行中は原因不明のままだったが帰国後に後日判明したその原因ですが、・・・えー、結局痛風でした。orz
 何はともあれ、成田から飛行機で7時間くらい、行きは成田を夜飛び立ち4時間かそこらで外は夜が明けホノルル国際空港に着いたときは午前中である。そこからバスで滞在先のホテルへ、ワイキキビーチの目の前に立つワイキキ・ビーチ・マリオット・リゾート&スパ。泊まった部屋は21階、テラスからはワイキキビーチとダイアモンドヘッドが一望できる。いや、いいねこりゃ。
 さて、今回海外旅行としてはそれほど長い滞在ではない。3泊ゆえ一日中の時間があるのは中2日だけである。そこで計画をたて、中2日それぞれひとつずつの計2つ、旅行会社が斡旋してくれたオプショナルツアーに参加することとした。今日はその一つ目、滞在2日目に参加したツアーである。そのツアーとは・・・、当施設的にはやはりまず押さえたかった、真珠湾である。今は真珠湾で記念艦としての余生を送る戦艦ミズーリツアーに行くことにした。足が痛いためホテルから借りた傘(ハワイでは店で傘を見つけることは難しい)を杖に出撃、バスを乗り継ぎ真珠湾フォード島に上陸、やがてミズーリの巨体が現れた。ちなみに戦艦ミズーリは真珠湾攻撃の時点ではまだ建造中、就役したのは大戦末期の1944年6月である。そして言わずと知れた1945年9月2日、第二次世界大戦終結の瞬間、日本と連合国との降伏文書調印の舞台である。ミズーリの艦首の向こうにはかの真珠湾攻撃で撃沈され今も海底に眠る戦艦アリゾナの記念館が見える。ここに太平洋戦争の「始まり」と「終り」を見ることができるのである。
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 そして乗艦。とにかくでかい。全長270m、これは総トン数や主砲の口径では上回る戦艦大和よりも実は7m長い。つまり大和の方が艦形はかなり太めでミズーリは細身である。40cm砲塔、甲板上の砲塔は最上階といってよい。実際は弾薬庫のある艦の底まで地下5階の巨大な構造物である。砲身一本でジャンボジェット機の重量に等しいと言うが、砲身三本ついたこの砲塔を90度回転させるのにわずか数十秒という速さだそうだ。40cm砲弾の重さは約1t、これを37kmかなたまでぶっ飛ばすことが出来る。ちなみに大戦末期にはこいつで北海道室蘭市の製鉄所が砲撃され多大な被害を受けている。まあこんなもん撃ち込まれた日にはたまったものではない。なお、甲板から真珠湾内を見回すとそこはアメリカ海軍基地、現代の各種の軍艦が並ぶ。揚陸艦やおそらくアーレイ・バーク級のイージス艦らしき姿が見える。よく見ると艦尾に日の丸をつけた艦の姿も。どうやら真珠湾に訪問中の海上自衛隊の護衛艦である。
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 艦首から右舷甲板の後方に進むと何かの場所を示す説明がある。そこは1945年4月11日、一機の爆装零戦が突入したという場所であった。今も船体の淵の部分が歪み、特攻機の激突の跡をわずかに残している。爆装零戦ではあったのだが、このとき爆弾は不発だったかあるいは既に別の目標に投下した後だったのか大爆発は起きず、零戦の航空燃料により甲板上に大火災が発生したものの米軍側に死傷者はなかった。その後甲板上に零戦のパイロットの遺体の上半身が発見される。当時戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長は部下が反発するのを押さえ、祖国のために命を捧げたこのパイロットに軍人として敬意を表して丁重に葬るように命令したという。即製の旭日軍艦旗が作られ遺体は海軍式の水葬で弔われたそうである。のちにこのときの零戦のパイロットが岡山県出身、当時19歳の若さで戦死した石野節雄二等兵曹であるとわかったのはつい近年、すでに戦艦ミズーリがこの真珠湾で記念艦となった後のことである。
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 最後は湾岸戦争にも参加した戦艦ミズーリ。今は近代化改装されたため、トマホーク・ミサイルやハープーン・ミサイル、CIWSなどを装備し作戦指揮室ものちの時代のものである。なお、作戦指揮室にあった地図はペルシャ湾の地図であった。そして再び右舷甲板に出る部屋、そこは降伏調印式の前、ダグラス・マッカーサー元帥他、連合国側の代表者の控えの場所だったそうである。ツアーガイドの方に「マッカーサーになった気分で出てみましょう」と言われて外に出る。そこには降伏調印式の場所を示す碑が甲板に埋め込まれていた。ただし、左足が効かず杖を突いて歩いていた施設長は、マッカーサーというよりはどっちかというと重光葵全権大使の気分をたっぷり味わったというところである。重光外務大臣が戦前中国で爆弾テロに遭い片足を失っていたことを知っている米軍は、調印式の前にモップを足に固定させた水兵を重光外務大臣役にして歩かせて何度もリハーサルを行っていたそうである。
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他にも貴重な物を見て貴重な話しを聞いたミズーリツアーだったが長くなったのでこのくらいにしよう。ちなみにこの日は7月4日、そう、アメリカ独立記念日である。ホテルに帰り夜になるとワイキキビーチはにわかに人で埋め尽くされた。アメリカでは独立記念日には全米各地で花火大会が催される。施設長もビーチに出て独立記念日の花火を満喫させてもらった。下記、3枚目を見るとわかるが、花火はワイキキビーチとその遥か後方真珠湾でも打ち上げられていた。
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