パラオに行ってきました(9/10-15)・中編
さて、ペリリュー島戦跡ツアーである。パラオ滞在中の4日間のうち、1日目はホテルでのんびり、プライベートビーチで少し遊んで、夜はビーチバーで一杯。ペリリュー島にはその翌日に行った。
ペリリュー島はパラオで最も人口の多い元首都(現首都はバベルダオブ島のマルキョク州)コロール島の南西40kmほどのところにある南北10km、東西3kmの島である。人口は700人ほど、日本統治時代には島の南部にも人が住んでいたのだが、戦後アメリカによって住民は北部に移住させられたため、島の北部以外はほとんど無人の土地である。
滞在したホテル、パラオロイヤルリゾートは自前のダイビングショップと船着き場があり、ホテルからそのまま船で直接ペリリュー島に向かう。定員数名程度、船外機を二連装した小型の高速ボートに乗る。ペリリュー島まで約一時間、ロックアイランドと呼ばれる無数の無人島の間をすり抜けて突っ走る。なかなか痛快な船旅である。
と、思ったら急に減速して海の真ん中で止まる。ふと見ると浅瀬に何か沈んでいる。海面からはプロペラの先だけ顔を出している。戦時中に不時着した零戦である。パラオの海には当時の軍用機や艦船などが今もそこらじゅうに沈んでいてダイビングスポットになっているという。
さて、ペリリュー島に上陸、島の一番北にノースドックと呼ばれる波止場に着く。島内は車で移動、古ーい日本車に乗る。そういえばパラオで走っている車の日本車率は日本国内より高いかもしれない。当初カーエアコンは動かないと聞かされたが、どうやら動いてくれてみんなで拍手。



ノースドッグからすぐの場所に早くも現れたのがコンクリート製の日本軍のトーチカ跡、そして千人洞窟と呼ばれる深い洞窟陣地である。そこにペリリューの戦闘の際、1000人近い日本兵が立てこもったという。千人洞窟というだけあり中は深く迷路のようだ。ツアーガイドの案内がなければ中で迷子になりそうだ。中には火炎瓶につかったビール瓶などの遺物が今もいくつも残されていた。出入り口の周りの土は米軍の火炎放射器で焼かれて黒く焼け焦げた跡が今もくっきりと残っている。
車でしばらく行くとペリリュー島のメインストリートを通る。といっても人影も少なくとてものどかだ。ペリリュー州政府庁舎というのもあったがまあ小さな村の村役場という雰囲気。その先、現地の住民の墓地の傍らに日本の戦没者慰霊碑がある。そこで線香をあげて手を合わせる。
そこから先、島内は縦横に道路があるが人は住んでいない。密林の中を走る。すると日本軍の燃料倉庫の建物をそのまま使ったペリリューWWⅡ記念博物館が現れる。周囲は人が住んでる形跡のなく我々以外誰もいなかったのだが、中はなぜか冷房だけは常時ガンガンかかっているようだった。アメリカ側が作ったもののように見えたが日米双方の武器などの遺品が展示されている。
さらに先へ、すると密林の中に忽然と現れる鉄筋コンクリートの建物。日本海軍の司令部跡だ。天井は大型爆弾によるものと思われる大穴があき、そこから樹木の根が垂れ下がりさながら映画「天空の城ラピュタ」のシーンを彷彿とさせるが構造部分はまだしっかり残っている印象。機密文書などを保管した保管庫の鉄の扉などもまだある。




そして次に現れたのが日本軍の95式軽戦車。ペリリューの日本軍守備隊が持っていた戦車はこの95式軽戦車16両だけだったという。ペリリューの飛行場にほど近く、飛行場を巡る戦闘の際に破壊されて残ったものと思われる。
やがて飛行場に出る。まあ人影のない滑走路だけが広がっている場所だが緊急時には未だ現役で使用されている。何年か前までは定期便もあったのだが事故があって以来それは途絶えているそうだ。滑走路を横切ると、米陸軍第81師団の慰霊モニュメントがあり、その向こうにはオレンジビーチと呼ばれる海岸が広がっている。
オレンジビーチ、そこはアメリカ軍が上陸を開始した海岸であり、1インチ進むごとに1人戦死したとまで言われるような凄惨な戦闘が繰り広げられた場所である。海岸の名前は海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」と言われることがあるが、実際にはアメリカ軍が上陸地点の海岸を北からホワイト1,2,オレンジ1,2,3というコードネームをつけていたことに由来する。ただ、「海岸が流血で染まった」こと自体はウソではなかっただろう。
オレンジビーチのすぐそばのモンキーバナナの茂る密林の中に再び零戦の残骸があった。増槽タンクがついてないのでおそらく片道飛行、つまり特攻機だろうとのこと。
(後編に続く)
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