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2011年9月30日 (金曜日)

パラオに行ってきました(9/10-15)・中編

さて、ペリリュー島戦跡ツアーである。パラオ滞在中の4日間のうち、1日目はホテルでのんびり、プライベートビーチで少し遊んで、夜はビーチバーで一杯。ペリリュー島にはその翌日に行った。
ペリリュー島はパラオで最も人口の多い元首都(現首都はバベルダオブ島のマルキョク州)コロール島の南西40kmほどのところにある南北10km、東西3kmの島である。人口は700人ほど、日本統治時代には島の南部にも人が住んでいたのだが、戦後アメリカによって住民は北部に移住させられたため、島の北部以外はほとんど無人の土地である。
滞在したホテル、パラオロイヤルリゾートは自前のダイビングショップと船着き場があり、ホテルからそのまま船で直接ペリリュー島に向かう。定員数名程度、船外機を二連装した小型の高速ボートに乗る。ペリリュー島まで約一時間、ロックアイランドと呼ばれる無数の無人島の間をすり抜けて突っ走る。なかなか痛快な船旅である。
と、思ったら急に減速して海の真ん中で止まる。ふと見ると浅瀬に何か沈んでいる。海面からはプロペラの先だけ顔を出している。戦時中に不時着した零戦である。パラオの海には当時の軍用機や艦船などが今もそこらじゅうに沈んでいてダイビングスポットになっているという。
さて、ペリリュー島に上陸、島の一番北にノースドックと呼ばれる波止場に着く。島内は車で移動、古ーい日本車に乗る。そういえばパラオで走っている車の日本車率は日本国内より高いかもしれない。当初カーエアコンは動かないと聞かされたが、どうやら動いてくれてみんなで拍手。
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ノースドッグからすぐの場所に早くも現れたのがコンクリート製の日本軍のトーチカ跡、そして千人洞窟と呼ばれる深い洞窟陣地である。そこにペリリューの戦闘の際、1000人近い日本兵が立てこもったという。千人洞窟というだけあり中は深く迷路のようだ。ツアーガイドの案内がなければ中で迷子になりそうだ。中には火炎瓶につかったビール瓶などの遺物が今もいくつも残されていた。出入り口の周りの土は米軍の火炎放射器で焼かれて黒く焼け焦げた跡が今もくっきりと残っている。
車でしばらく行くとペリリュー島のメインストリートを通る。といっても人影も少なくとてものどかだ。ペリリュー州政府庁舎というのもあったがまあ小さな村の村役場という雰囲気。その先、現地の住民の墓地の傍らに日本の戦没者慰霊碑がある。そこで線香をあげて手を合わせる。
そこから先、島内は縦横に道路があるが人は住んでいない。密林の中を走る。すると日本軍の燃料倉庫の建物をそのまま使ったペリリューWWⅡ記念博物館が現れる。周囲は人が住んでる形跡のなく我々以外誰もいなかったのだが、中はなぜか冷房だけは常時ガンガンかかっているようだった。アメリカ側が作ったもののように見えたが日米双方の武器などの遺品が展示されている。
さらに先へ、すると密林の中に忽然と現れる鉄筋コンクリートの建物。日本海軍の司令部跡だ。天井は大型爆弾によるものと思われる大穴があき、そこから樹木の根が垂れ下がりさながら映画「天空の城ラピュタ」のシーンを彷彿とさせるが構造部分はまだしっかり残っている印象。機密文書などを保管した保管庫の鉄の扉などもまだある。

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そして次に現れたのが日本軍の95式軽戦車。ペリリューの日本軍守備隊が持っていた戦車はこの95式軽戦車16両だけだったという。ペリリューの飛行場にほど近く、飛行場を巡る戦闘の際に破壊されて残ったものと思われる。
やがて飛行場に出る。まあ人影のない滑走路だけが広がっている場所だが緊急時には未だ現役で使用されている。何年か前までは定期便もあったのだが事故があって以来それは途絶えているそうだ。滑走路を横切ると、米陸軍第81師団の慰霊モニュメントがあり、その向こうにはオレンジビーチと呼ばれる海岸が広がっている。

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オレンジビーチ、そこはアメリカ軍が上陸を開始した海岸であり、1インチ進むごとに1人戦死したとまで言われるような凄惨な戦闘が繰り広げられた場所である。海岸の名前は海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」と言われることがあるが、実際にはアメリカ軍が上陸地点の海岸を北からホワイト1,2,オレンジ1,2,3というコードネームをつけていたことに由来する。ただ、「海岸が流血で染まった」こと自体はウソではなかっただろう。
オレンジビーチのすぐそばのモンキーバナナの茂る密林の中に再び零戦の残骸があった。増槽タンクがついてないのでおそらく片道飛行、つまり特攻機だろうとのこと。

(後編に続く)

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2011年9月29日 (木曜日)

パラオに行ってきました(9/10-15)・前編

さあ、久々にやってまいりました。当施設オリジナルの海外取材です。いつぞやのハワイに続き第二弾、いってみましょう。
行ってきたのはパラオ共和国。どこにあるか皆さんご存知でしょうか。パラオ共和国は太平洋上、ちょうどグアム・サイパンとフィリピンの間くらいに浮かぶ大小無数の熱帯の島々からなる人口2万ほどの小さな国。1994年独立。その前は戦後ずっとアメリカの信託統治領、そしてその前、第一次大戦後のパリ講和会議から第二次大戦終結で主権を放棄するまでの約20数年間は日本が委任統治していた。そう、台湾や朝鮮半島のほかに日本の統治時代の経験をもつもうひとつの国、それがパラオである。
今回は5泊6日、といっても実質現地4日の旅であった。日本からパラオへは定期の直行便はなく、今回グァム経由だったため行き帰りに時間を要したのと夜中の移動となった。前日出発して滞在先であるパラオ・ロイヤル・リゾートに到着したのが夜中の2時台。パラオ国際空港について以来周りは真っ暗、さてどんなところに着いたのだろうと思いつつ寝て朝起きると、ようやく熱帯の楽園とご対面、部屋のベランダからの景色に目を奪われる。
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いや美しい。サンゴの真っ白な砂浜って実在するのね。ホテルが持つプライベートビーチを泳いだらもう魚やシャコ貝にも出会える。あとありがたかったのは熱帯のわりには意外に暑くない。ハワイと違い湿度はかなり高いことは知っていたので覚悟していたのだが、絶海の島のパラオも海洋性気候であり暑くなり過ぎないのだ。暑くても30度ちょっと、平均28度くらいか。日差しは日本の7~8倍の紫外線と強烈で屋外にいればどんどん暑くなるが、日陰に入れば暑くない。
それでも心配したのが天候、パラオは高温で多湿。雨は多い。近年パラオではあまり雨期と乾期の区別がはっきりしないらしいが9月は雨期であり、天気が悪いことも覚悟していた。だが滞在中ほとんど晴天という幸運に恵まれた。2、3度スコールに見舞われたが激しく降るその向こうの空は青空と、なんか清々しいくらいだった。

さて、本題。当施設的パラオ取材の大きな目的、それは第二次世界大戦末期に日米両軍の激戦地となったパラオの戦跡ツアーである。ここでパラオ・ペリリュー島の戦いについて簡単におさらいしよう。第二次大戦末期の1944年9月、戦前アメリカの植民地だったフィリピンを奪回するため、アメリカ軍はパラオ諸島の南に位置するペリリュー島を攻略する。ペリリュー島には日本が建設した飛行場があり、アメリカにとってフィリピン奪回の戦略拠点だった。
すでに制海権と制空権を掌握して圧倒的な物量でペリリュー島攻略に臨んだ米軍に対し、満州から転戦し関東軍最強と言われた陸軍第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊を主力としたペリリュー島の日本軍守備隊は、島内に500以上の洞窟陣地を作るなど半年かけて島全体を要塞化して迎え撃った。
当初3日で占領できると予想していた米軍だったが、ゲリラ戦法による徹底した持久戦にもちこんだ日本軍は凄まじいまでの奮戦を見せる。日本軍による組織的な抵抗が終わったのは上陸開始から実に2か月半も経った11月終わり。その間日米両軍の凄絶な戦闘が続き、アメリカ側も当初攻略を担当した第一海兵師団が死傷率60%以上の全滅判定を受けて陸軍第81師団と交替するなど、アメリカ軍にとっても「米国の歴史上で最悪の損害比率を甘受せねばならない」戦いとなったのである。
(中編に続く)

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