パラオに行ってきました(9/10-15)・後編
さて、パラオ旅行記後編、オレンジビーチのあとさらに南に向かいペリリュー島の最南端に出る。そこは日本政府が建てた記念碑のあるペリリュー平和記念公園である。ここで昼食をとる。熱帯の海を眺めながらの食事、見るとペリリュー島のさらに南にあるアンガウル島が見える。アンガウル島もペリリュー同様に激しい戦闘が行われ、1500名の日本軍守備隊が玉砕した場所である。戦前はリン鉱山があり、日本統治時代にはリン鉱石工場が稼働していた。現在のアンガウル島は人口が300人ほど。なお、アンガウル州は州憲法で州の公用語をパラオ語、英語とそしてなぜか日本語が定められている。おそらく日本国外で日本語を公用語と法律で定めている地球上唯一の場所だろうか。ただし、現在のアンガウル島民で日本語を日常会話として使用している人はいないという。
昼食後、今度は島の内陸、大山と呼ばれた山の方へと向かう。ペリリュー島における終盤の方の戦闘が行われた場所へとだんだん向かっているのである。深い密林の山道を車で進み、開けた場所が現れるとそこにはLVTと呼ばれるアメリカ海兵隊の水陸両用戦車がある。進めるところまで進み、そこで破壊されたか何かで擱座したものだろうか。そこから先は車両では入れないような急斜面となる。車の旅は快適だったが、さすがに熱帯のジャングルを徒歩になるとやはり暑い。息を切らしながら登ると再び日本軍の洞窟陣地があり、そこには大きな無反動砲が広い洞窟の中から今も砲身を外に向けていた。日本軍は島の中腹にこうした大砲の陣地を設置し、米軍の砲爆撃を受けている間は鉄の扉を閉めて陣地を防御、米軍の砲撃が止むとすかさず扉から砲身が現れ火を噴いた。その射撃は極めて正確だったという。
深いジャングルの山をさらに上ると、銃弾の跡のあるドラム缶、迫撃砲弾の部品、そして日米双方の慰霊の品などに次々と出会った。それは観光用にいくつかを史跡として残しているというような雰囲気ではない。そこで日米両軍の将兵による凄まじい戦闘が行われた跡が今もそのまま残され生々しい。
さらに行くとすでに周囲は眺めの良い山の上の開けた場所にペリリュー神社と呼ばれる小さな神社がある。清流社という日本の右翼団体が建てたものだが今は地元の島民もお参りに来てくれるという。そしてペリリュー島でもっとも標高の高い大山の頂上近くに、日本軍による組織的抵抗の最後の場所、日本軍守備隊長である水戸歩兵第ニ連隊長中川州男大佐が自決した場所にたどり着く。1万人いた守備隊も司令部の兵力はわずか55人となり、ここで軍旗と機密文書を焼却して玉砕を意味する「サクラサクラ」の電文を発したのち万歳突撃を敢行してペリリュー島における組織的な戦闘は終結した。1944年11月27日のことである。中川隊長自決の地にある慰霊碑に再び線香をたき手をあわせる。それにしても圧倒的な物量の米軍に包囲され補給をすべて絶たれても、熱帯の島の洞窟の中に立てこもりなお2か月半に渡って頑強に抵抗を続け、米軍の誇る第一海兵師団をも全滅判定というほぼ壊滅的状態にまで追い込んだりもした日本軍守備隊の奮戦には驚嘆すべきものがある。なお、11月27日の司令部玉砕後も島内には34人の日本兵が島内の洞窟を転々としながら生存していた。終戦2年後の1947年まで島内に潜んでいたのち米軍に投降して、日本に帰国後「三十四(みとし)会」という戦友会を結成している。
さて、ここで本ツアー最大のサプライズが起きる。ブラッディノーズリッジと呼ばれた大山の頂上近くでなんと!その「三十四会」の元日本兵で今もご健在の方に偶然ばったり遭遇、もう一人、今はパラオ在住でアンガウル島の戦闘から生還した元日本兵の方と、付添の人たち数人とでペリリュー島を訪れていました。92歳とのことでしたが、米軍の記念碑と展望台のあるブラッディノーズリッジの頂上(暑さと急な階段で施設長は登っただけでヘトヘトになったんですけど・・・)までご自身の足で登られるお元気さはさすがでした。施設長一行はツアーガイドの方含めみんな大興奮で握手に記念写真も撮らせてもらえました。
このパラオ取材企画、期待はしていましたが当施設的にやはり非常に貴重な内容ばかりとなりました。なお、ペリリュー島ツアーのあともう二日間の滞在中はロックアイランドと呼ばれるサンゴ礁の島々でシュノーケリングなど海のレジャーを満喫。最後におまけとして、パラオの海の熱帯魚とシャコ貝、施設長による水中撮影をお届けしましょう。
以上、当施設の海外取材企画第二弾でした。
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